ミロのヴィーナス 腕が無いのはなぜ ?

ミロのヴィーナスには両腕がありません。

理由は、以下の通りです。

◯ この女神像の発見時、両腕はついていなかった

◯  同じ場所で両腕の断片が発見されたが、この女神像のものかは定かになっていない

◯ その後、両腕は見つかっていない

◯ 専門家たちが両腕の形の説を立て復元を試みてきたが、どれも仮説の域を出ていない

☆「腕が無い」理由の詳細と補足情報は、下記の記事をお読みください。

目次

両腕の復元を試みるも・・・・

両腕の復元への経緯

ミロのヴィーナスはルーヴル美術館に収蔵される以前は国王ルイ18世に献呈されていました。

国王ルイ18世は、腕がないのを不憫に思い腕の復元を彫刻家に命じています。

しかし、どれも国王を満足させるものではありませんでした。

結局は腕はない方がよいということになってしまったようです。

その後も、両腕について専門家たちによって様々な仮説、復元が試みられてきました。

しかし、どれも確定されるまでには至っていません。

専門家たちの復元案、仮説  

様々な仮説の中から代表的な仮説をまとめると、

◯左手にリンゴを持っている

◯右手は腰の布をおさえている

◯軍神マルスの隣に立っている

これらの中で、左手にリンゴを持っている説が広く伝わっているようです。

しかし、どの説も仮説の域を出ていません。

※「軍神マルス」とは、

  ヴィーナスの愛人とされていますが、夫という説もあります。

※「リンゴ」については、

  後述の『「リンゴ」からアフロディーテだと仮説をする理由』をご覧ください。

「ミロのヴィーナス」女神像、発見時の状況 

発見時の女神像 

発見された年代は、1820年。

場所は、エーゲ海キクラデス諸島の南西の島、メロス(現代ギリシャ語でミロ)島です。

ギリシャ人の農民、ヨルゴス・ケントロタスが洞窟の中で発見しました。

女神像は、分割された断片の状態で発見されています。

それは、大理石できた2個の断片ブロックでした。

この2個の断片ブロックは、腰から2分割された上半身と下半身のようです。

この時、上半身に両腕はついていませんでした。

そして、再探索の結果、あと4個の断片ブロックを発見しました。

発見された断片ブロックの部位 

発見された断片ブロックの部位は下記の通りです。

◯ 上下2つの断片ブロック(上半身と下半身)

◯ 2(3?)本のヘルメ柱

◯ リンゴを握った左手

◯ 腕の断片(右前腕?)

◯ 台座

この女神像の両腕と思われた断片が含まれています。

発見時の経緯 

最初の発見後、農民のヨルゴス・ケントロタスは畑に埋めて隠そうとしたそうです。

その現場をたまたま島に訪れていたフランス海軍オリヴィエ・ヴーティエに見つかります。

オリヴィエ・ヴーティエは、最初に発見された2個の断片ブロックに興味を持ちました。

そして、他にも断片があるかも知れないと考え発見した付近を農民と一緒に再探索したのです。

そして、あと4個の断片ブロックを発見しました。

所有権をめぐる2ヵ国の争い 

当時の発見場所ミロス島は、オスマン・トルコの支配下にありました。

オリヴィエ・ヴーティエの報告を受けフランスは所有権をめぐり奔走します。

一方でフランス海軍ジュール・デュモン・デュルヴィルも所有権獲得に動いています。

ジュール・デュモン・デュルヴィルは、フランス大使リヴィエール侯爵へ報告。

そして、リヴィエール侯爵は自己資金で女神像を買い取ります。

しかし、フランスはオスマン・トルコと交渉を余儀なくされる状況になります。

交渉の結果、最終的にはフランスが所有権を獲得することになります。

そして、買い取ったリヴィエール侯爵から国王のルイ18世に献呈されました。

その翌年、国王からルーヴル美術館へ寄贈され所蔵されています。

「ミロのヴィーナス」女神像のモデルは誰?

「ミロのヴィーナス」は、あの「アフロディーテ」か?

この女神像は、愛と美と性を司る女神アフロディーテだと考えられています。

その理由は、下記の通り、いくつかあります。

◯この女神像が半裸であることから、アフロディーテもよく半裸で表現されているから

◯この女神像の発見と同時に同じ場所からリンゴを持った左手が発見されているから

(この女神像のものかは定かになっていません。)

◯専門家たちによる説の多くが「左手にリンゴを持っている」という点をあげていること

「リンゴ」と「アフロディーテ」のつながりは、次項に書かれています。

「リンゴ」から「アフロディーテ」だと仮説をする理由  

「リンゴを持っている」ことからアフロディーテだと仮説をする理由がこれです。

ギリシャ神話、「パリスの審判」という一挿話にそのリンゴが登場します。

それは「最も美しい女神へ」と記された黄金のリンゴを奪い合う場面です。

天海の三美神、へーラー、アテーナー、アフロディーテの中で最も美しい女神は誰か?

その問いに、ゼウスは羊飼いのパリスに判定を委ねます。

三美神のそれぞれの策略の末、パリスはアフロディーテを選び黄金のリンゴを授けます。

「左手のリンゴ」とは、その黄金のリンゴではないかと考えられているわけです。

リンゴとアフロディーテとは、こうした因果があるのです。

したがって、もし「リンゴを持った左手」がこの女神像のものだとすれば、

この女神像はアフロディーテの彫像だと考えられているわけです。

説から推測する「ミロのヴィーナス」名称の由来

「ミロのヴィーナス」名称の由来は、「ミロ」とは女神像が発見された場所を表します。

発見されたのはメロス島ですが、メロスは現代ギリシャ語で「ミロ」といいます。

「ヴィーナス」とは、ギリシャ神話の愛と美と性を司る女神アフロディーテのことです。

アフロディーテは、ローマ神話、古典ラテン語名ではウェヌス(Venus)といいます。

ウェヌス(Venus)を英語読みすると、「ヴィーナス」となります。

ヴィーナス(アフロディーテ)の遍歴

誕生までの挿話と誕生の瞬間

ヘシオドス(詩人)の「神統記」では、

ゼウスの父である大地と農耕の神クロノスが天空の神ウラノスの体の一部を切り落とします。

そして、その切り取った体の一部を海に投げ入れました。

そこから沸き立った泡の中からアフロディーテは誕生したとされています。

しかし、ホメロス(詩人)によれば、アフロディーテはゼウスとディオネの娘としています。

名画「ミロのヴィーナス」に描かれている、実在の生誕の地

東地中海の島国キプロス共和国の南西部、パフォス近郊ペトラ・トゥ・ロミウ海岸です。

ヘシオドスの「神統記」では、

西風ゼピュロスに運ばれアフロディーテはキプロス島パフォスに上陸します。

世界的な絵画「ミロのヴィーナスの誕生」(サンドロ・ボッティチェッリ作)という世界的な絵画があります。

中央にアフロディーテが貝殻の上に立ち、海に浮かぶ姿が描かれています。

アフロディーテは、左の西風ゼピュロスに吹かれて陸に流れ着く様子が描かれています。

その場所がペトラ・トゥ・ロミウ海岸です。

縁組、結婚、情事

オリンポスの神々はアフロディーテを妻にすることを望みました。

しかし、ゼウスは神々の中でも最も醜い鍛冶の神へーパイストスを夫に選びました。

こうして、ゼウスはアフロディーテを養女にしたとされています。

しかし、アフロディーテは軍神アレスを愛人とし密通を重ねます。

それを知った夫のへーパイストスは巧妙な罠を仕掛け二人の密会の現場を押さえます。

そして、罠により動けなくなったままの二人の情事の姿を神々を呼び晒してしまいます。

アフロディーテは、他にもポセイドンなどの神々、人間との情事もあったとされています。

その中の1人、アンキーセスとの間にはローマ帝国の祖アイネイアースが生まれています。

しかし、一方で実は軍神アレスがアフロディーテの夫という説もあります。

アフロディーテとアレスの間に生まれた息子が愛神エロスといわれています。

「ミロのヴィーナス」 プロフィール

大きさ、構造、製造技術

ルーブル美術館所蔵 (フランス、パリの国立美術館)

ミロのヴィーナスの大きさ、高さは、203(204?)cm。

分割されたパーツごとの大理石製、断片ブロックからできている。

部品を使って断片ブロックを結合、組み立てる技術が使われています。

この像が造られたと考えられているのは紀元前130~100年頃。

発見されたキクラデス諸島で、当時とても普及していた技術だそうです。

金属製の装飾品で飾られていたようですが、今はそれらをとめる穴のみが残されています。

失われた台座の銘文から推測する、制作年代と制作者

制作年代は、紀元前130年~100年頃。

制作者は、アンティオキア人アレクアンドロスという説がありますが断定されていません。

女神像の発見時、銘文が刻まれた台座も発見されていますが、その銘文には、

「マイアンドロスのアンティオキア人 メニデスの子 アレクアンドロス これを作る」

という彫刻家の銘文がありました。

アレクアンドロスは紀元前130年頃に活動していた彫刻家であることから、

制作年代はこの頃ではないかと推定されています。

ところが、その台座が紛失したため断定には及んでいません。

たった1度の海外公開、日本

ミロのヴィーナスは、たった1度だけ海外で公開されたことがあります。

その国とは、日本です。

東京オリンピック開催の年、フランス文化省はミロのヴィーナスを日本に貸し出しています。

主催、会場は、国立西洋美術館と巡回先である京都市美術館で行われました。

展示期間は、1964年4月8日~1964年6月25日。

国立西洋美術館が、4月8日~5月15日。(38日間)

京都市美術館が、5月21日~6月25日。  (36日間)

入場者数は、西洋美術館が831,198人、京都市美術館が891,094人。

合わせて、1,722,292人に及びました。

京都市美術館の方が入場者数が多かったのですね。

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